期待をしたい関係から、社会的関係へ
この間の記事の続き。
情けない夫は、「私から言い出して私から終了させた体で」話し合いの回避に成功した。
この話し合いは、「自分(夫)の考えを言っていなかったのが夫婦関係の原因だったとしたら問題だから、これからは自分の考えを言う時間を持つ」という夫側からの提案から始まったものだった。
それを、妻の力を借りて終了させた。夫は心底ほっとしているだろう。終わらせたのは自分ではない。毎週のあの時間を過ごさなくてよい、と。
私も、毎週毎週、期待と絶望の間で異常な乱高下を繰り返す必要がなくなった。自分を鬱にさせている要因を、一つ取り除くことが出来た。
もし何かでこれが喧嘩のネタとして出てきたとき、夫は言うだろう。「あれはあなたから辞めようっていったんでしょ」
もうブログに記録を残しているから堂々と言える。
「違う」
と。
そして、議論する気は一切ない。
あれは、私があなたの意向を汲んで辞めさせたもの。
話し合おうというかもしれない。でも、話し合いを終わらせたのはあなただ。もう話し合う事はなにもない。
このブログは、なんとか自分を見つめ、夫に期待をする心を捨て、自分と夫を切り離すために始めたものだった。
話し合いを辞めてから、思う。
もう、ブログ当初の、夫と自分を切り離すことは、これを機に完全にできたと。
もう夫は、私にとって「期待をしたい人」ではない。
「社会的な関係性にいる人」、つまり、家族や恋人として期待を胸に温かい心で通じることを望む人ではなく、社会的な関係性の中で、争うことなく、無難に生きていくかを考える人だ。
社会的関係性にあるから、不快なことはしない。
社会的関係性にあるから、自分の考えを押し付けない
社会的関係性にあるから、相手の特性を認識する。
夫は、私の人生で出会う多くの人々の中の一人に埋もれていった。